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本来正義の味方であるべきスパーヒーローは、複数の顔を持ち、数本の腕で自然を破壊するモンスターとなる。ロボット化した闘牛士に立ち向かう牡牛。黒の頭巾をかぶり、猟銃を手に森をさまよいオオカミを狩るダーク頭巾。これらのキャラクターは暗喩的に何かを暗示しながら、私の絵画の中でドラマを繰り広げる。

時に厚く塗られ、時にキャンバスに飛び散らされ滴る絵具は、私の心から腕、手を伝わりキャンバス上へと噴出される感情を表現する。時に激しく、時に静かに奏でる音楽とともに、私のファンタジーが絵として画面に現れる。
私は作品を描こうとキャンバスに向かうというより、日々起こる様々な環境破壊、それを取り巻く社会に動かされ日々制作に向かわされている。それらの現象に対する感情が、創作エネルギーとなる。

地球はこれまでにないスピードで変動を続け、自然が破壊され続けている。無論その要因はこれまでに例のない高い知能を持った生物、人類によるものである。
これまでの長い歴史の中で、地球上の全生物は数度にわたり死に絶える寸前まで追い込まれてきた。その要因は隕石の衝突による気候大変動であったり、地球上で起こる自然発生的なものであった。しかし現在地球上で起こっている全生物を含んだ自然破壊は、人間という地球から生れ出た単一生物がもたらすという、これまでに例のないものである。この現象はまた地球の一つの時世が終わるピリオドで、また新たな時世が始まるのであろうか。しかし私にはこの人類による自然の法則を無視した一方的な破壊を、黙って見届けることはできない。

私の作品群には、この問題を解決する明確な回答は示されてはいない。なぜならその回答は、個人一人一人が見出すべきものだから。
私は芸術をその時代時代を写し出す鏡と解釈している。そしてその鏡が反映する絵画世界は、見る者に何かを問いかけるのだろう。

生い立ち

1978年中国山地の山中に位置する岡山県新見市に、陶芸家の父、彫金作家の母の間に生まれる。生後1年半程で、 鉛筆を持って盛んに絵を描き始める。

囲碁を趣味にしていた父親から、6歳の時に突然囲碁を教え込まれ、ほぼ強制的に毎日囲碁の勉強をさせられる。囲碁より絵を描くほうが好きだったが、父親に嫌われることを恐れたために、嫌々ながら父親との囲碁の勉強を続ける。

8歳のある日、父親から「東京に住む囲碁のプロ棋士の先生の所へ弟子入りして、プロ棋士を目指すか?」、と問われる。家族の元を離れて暮らすのは嫌なので、すぐに「嫌だ。」、と答えるが、父親のあまりに落胆した様子を見て、つい弟子入りに同意してしまう。 本当は囲碁が好きではなく、プロ棋士になることにも全く興味がなかったので、この父親の問いへの返事が私の人生を大きく変え、苦難の少年時代を始まらせることとなる。

普通 囲碁の世界では、中学生頃になってから弟子入りするのが普通なので、さすがに8歳での弟子入りはきついということで、結局家族ごと東京に1年間住み、毎日小学校から帰った後囲碁の先生の所へ通う。 この後小学校4年生になったところで、この先生の家に弟子入りし内弟子生活が始まる。
私が一番年下で、4人の年上の兄弟子が居て、年が近くても3歳年上、後は10歳程年が離れていた。 内弟子生活はまだ幼い私にはかなり厳しいもので、朝夕に家の掃除をさせられ、洗濯等の身の周りのことは一切自分でしなくてはならない。
更に大変だったのは食事の事。というのもこの囲碁の先生は50代で独身、80代になる先生の母親が弟子たちの食事の面倒をみていたのだが、高齢のため時には自分で何か料理をする他なかった。 この囲碁の先生の家は戦前に建てられた木造のかなり古い家で、外見も家の中もボロボロで、弟子たちも布団のシーツを洗ったりする習慣がないといった具合で、ゴキブリ、ノミなどがいて衛生的にもかなりひどい環境だった。
そして最も辛かったのは、1年に1度しか故郷に帰ることが許されなかった事。普通、弟子はプロ棋士になるまで故郷に帰ることを許されないのだが、私の場合はまだ幼かったため異例で、中学生になるまでは1年に1度故郷に帰ることを許される。
こうして、毎日仕方なく碁盤の前に座り、兄弟子達が皆居ない間に隠れて絵を描く日々がしばらく続く。

私は大自然の中にある田舎に育ったので、大都会の東京生活はあまり好きになれず、絶えず故郷に帰る日を待ち焦がれていた。 この「生まれ故郷の大自然」と「大都会、東京」という大きなギャップが、「人間とはいったい何なのだろう?」、「本来、人間のあるべき生活とは何なのだろう?」といった事について、幼い私を無意識のうちに絶えず考えさせた。
この頃から今に至るまで、「人間と自然」に関する自分なりの考えが発展して、のちに自分の哲学となる。そして、今の私の芸術のテーマの基礎ができたのだろう。

中学に入り、好きでもない囲碁と自由のない内弟子生活、そして見通しの利かない将来に不安は募るばかり。 隠れて絵を描くことが唯一の救いだったが、「絵描きは食べていけない。」といった大人たちの口にすることを無意識に受け入れていたのか、「画家を目指したい」ということは当時考えたことはなかった。しかし中学3年生のある日、私にとって人生の転機になる運命が突如やってくる。
当時私にとって囲碁の勉強が嫌なため家に帰るのが苦痛だったので、学校が終わっても大抵友人達と会うか、一人で町をぶらついていた。そんなある日、あるいつも行く本屋に寄った時の事だった。
いつもはただコミックスのコーナーで漫画を立ち読みするだけだったのだが、この日は何を思ったのか、ふと「芸術というものは、いったいどういうものなのだろう。」と、突然それを知りたくなった。 私は子供の頃から好奇心は強いほうだった。

そして初めて、芸術に関する本の並んだコーナーの前に立つ。当時は芸術に関して一切知識が無かったので、いったいどの本を手にすれば良いのか分からない。 そこで、ある全集のアーティストの名を、左から右へといった具合に一通り目を通してみる。この全集は、主にフランスの印象派等を扱ったものだった。
芸術に関して知識は全く無く、ましてやアーティストの名など知る由もない。しかし、「モネ」という名を目にした時なぜか、「どこかで聞いた名前だな。」といった妙な気持ちが起こり、そのモネの画集を手に取る。これが生まれて 初めて自発的に手に取った、芸術に関する書物だった。
そして、この画集を開くとすぐにモネの絵が私の心を揺さぶった。 思いがけなかったこのモネの絵に痛く感動し、涙がこみ上げてくるほどだった。恐らくこのモネの風景画に、自分の生まれ故郷の大自然を思い出したのだろう。というのも、中学生になってから故郷に帰る事を許されていなかったので、約3年間故郷の地を踏んでいなかったのだ。手持ちに 金がなかったので、金を取りに家へとんで帰り、このモネの画集を買う。

この日から毎晩、寝る前にこの画集を見るのが毎日の楽しみになり、この画集を毎晩見ている内に「芸術家になるのが自分の本来進むべき道なのだ。」、と思うようになる。
こうして暗闇の中に一筋の光が見え、徐々にそちらの方へ導かれていく。 とりあえず油絵具の使い方を学ぼうと思い、中学の美術の先生に頼み油絵の技法を学ぶ。 運命とは皮肉なもので、嫌々出された東京でこうした芸術との出会いがあり、また好きになれなかった東京という大都会だったからこそ、時折モネ等の数多くの展覧会を見ることができ、私の芸術の感性が磨かれていく。

私の「芸術家になりたい」という意志は強く、結局これには父親もどうすることもできなかった。 中学を卒業後ようやく内弟子生活から開放され故郷に戻る。
この時の開放感は、まるで長年閉じ込められていた牢獄からようやく開放された、といった感じのものだった。 私にとってこの時が、本当の意味での人生の始まりだった。 ようやく自由の身になれたので、それまでに失った時間を取り戻そうと、色々な意味で自分の目標のために必死に励む。高校では美術科を専攻し、学校の後は美大受験生を対象にした絵画教室で学び、週末は印象派の画家を手本に郊外で風景画を描いていた。
大都会を好まず常に自然に憧れていたので、故郷の大自然は大いに私を感動させ、多くの風景画を描かせた。

当時はまだ、自分の「人間と自然」に関する思想と芸術の間にはつながりはなく、ただ自分が感動する風景をキャンバスに表現することに夢中になっていた。
モネから芸術に入ったのでフランスに段々と興味を持ち始め、高校2年生の頃、卒業後のフランス留学を考え始める。父親が私と同じくらいの年齢の頃、カナダに留学していた話を聞いていたので、子供の頃から外国には漠然と興味を持っていた。
とりあえず自分の目で確かめようと、高校2年の冬に初めて独りで外国旅行に出かける。 2週間のパリ旅行だったが、このとき受けたカルチャーショックはとてつもなく大きなものだった。そして初めて、日本という国が世界に対してどれほど小さなものかを痛感する。
このカルチャーショックは、私の芸術に対する考えにも大きな影響を与える。それ以前はただ風景を描くことに満足していたが、パリで初めて現代美術に触れたことによって、一つの疑問が生まれる。
それは「自分がこれほど感動させられる風景がすでに自分の目の前に存在するのなら、いったいなぜ自分はそれをまたキャンバスに表現しなくてはならないのだろうか?」、といったものだった。 またこの頃自然破壊などのことを知り、自分が愛する自然が地球規模で破壊され続けていることに対し、これは何とかしなくてはならないという使命感も感じ始めていた。

これを皮切りに、自分の「人間と自然」に関する思想を、芸術を通して人々に伝えたいといった欲求が起こり、それを元に新たな制作を試みる。この転機をきっかけに、日本の芸術教育がとてもアカデミックに感じ、絵画教室に行くのをやめ、独学で制作を始める。
この旅の後留学を決意し、高校卒業後すぐにパリに留学する。 本当はこの留学の直前にはすでに、「現代美術の中心がドイツだ」ということを洋書などを通し知っていたのだが、この留学のために必死でフランス語を学んだり、すでに準備をすっかり整えていたために、とりあえずそれでもまず実際肌で感じてみてから考えようと思い、パリに留学することにした。

パリでは語学を学ぶ傍ら、自分独自の表現を確立しようと毎日1枚というペースで、とりあえず頭に浮かぶイメージを片っ端から描き続ける。それまでには、見たものを描く事しかしていなかったので、何か想像のものを生み出すという事は、自分にとってひとつの大きな壁だった。
何十枚と描くうちに、徐々にそれなりの傾向が見え始める。
この白熱した制作と平行して、定期的にパリのギャラリーにも目を通すが、時間が経つにつれこれらのギャラリーに展示されたパリの現代アートをつまらなく感じるようになる。パリでの滞在が9カ月を過ぎたところには、もう我慢が出来なくなり、突如ベルリンに移ることとなる。
パリの現代アートに退屈していた後だけに、ベルリンの若い作家のパワー溢れる現代アートは、私の目にとても新鮮に映る。また、常に新しい動きが起こるといったベルリンの町自体のエネルギーが気に入り、ようやく活動の拠点を見つけたと確信する

ベルリンに移るのを決意したころ、偶然日本から海外普及でパリに数日滞在していた囲碁のプロ棋士から、あるベルリンに住む囲碁好きなドイツ人の話を聞く。このドイツ人は当時不動産を経営する金持ちで、囲碁を普及するためにベルリンの囲碁連盟に援助していた。彼は丁度囲碁普及に協力する日本人の碁打ちを探していたので、私の紹介を受けると喜び、すぐにアトリエと住居を無料提供してくれ迎え入れてくれた。まさに「芸は身を助ける」といった具合に、ベルリン国立芸術大学在学中は囲碁教室を開きそれで生計を立て、日中は制作に励む日々が続く。ドイツがヨーロッパの中で一番囲碁が盛んというのも運命的な幸運だった。

偶然なのか、ベルリン移住直後私の芸術に突如大きな変化が現れる。それまではっきりとしない抽象的な形しか出てこなかった画面に、ベルリンに移ってからの第1作目で突然人物像が現れる。その人物の腹部からは木の幹が生え出し、足は地面に根ずくといったエネルギー溢れる像が現れる。奇妙なことだが、自分で描いているにもかかわらず、なぜこのようなイメージが目の前の画面に現れたのか自分でもわからず、自分自身驚かされた。言ってみれば、何かにとり憑かれて描いているような感じだった。しかし、このエネルギー溢れる表現が自分独自のものだと自覚して、この人物像はそれから今日に至るまで絶えず発展していき、私の芸術の表現の基礎となる。

ベルリン国立芸術大学在学中3年目にベルリンのあるギャラリストの目に留まり、2004年ベルリンのギャラリーにて初個展。卒業後はベルリンの老舗のギャラリーにて個展、その直後に初のアートフェア参加を契機に、ドイツのほかの町のギャラリーでの個展の機会を経て、徐々に展示、アートフェア参加の機会が増えていく。2012年のI氏賞大賞受賞を機に、日本での展覧会活動も始め、現在はヨーロッパ、日本を軸に作品を発表する。

1998年日本を去り今に至るまで、当時から一貫して「人間と自然に関するメッセージ」を人々に伝えるべく現在も作品を生み続けている。

Ryo Kato
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